若し人、智無くんば酔眠の人の如し。畜生に異ならず。また木石に似たり。智有れども信無くんば、人は無常にして、宝山華苑に取らずして空しく還るがごとし
慈覚大師円仁(794-864)
若(も)し人、智無くんば酔眠の人の如し。畜生に異ならず。また木石に似たり。智有れども信無くんば、人は無常にして、宝山華苑に取らずして空しく還(かえ)るがごとし。
智慧のない人は酔って眠っている人のようなもので、動物と変わりがない。草木石ころとも同じである。智慧があっても仏法を信じる気持がない人は、無常の道理に押し流されて、宝の山や花園に入っても何も得ることもなく無駄に帰ってくるようなものである。
『法華迹門観心絶対妙釈』
慈覚大師は第3世天台座主。838年、中国に渡り五台山、長安等で勉学し、多くの仏書や教法を伝えた。帰朝後は天台密教の大成に努めた。掲載文は、中国の湛然が『法華文句記』で智慧について書いた部分について『法華迹門観心絶対妙釈』で言及したもの。
智慧を持たぬ者は、まるで酔いしれて夢の中にいる人のようであり、動物と何ら変わりがありません。彼らは草木や石と同じように、思考や感情が働かない存在にとどまっています。逆に智恵を持ちながらも、仏法への信念が欠けている場合もまた問題です。これらの人々は、無常の世界に巻き込まれ、価値ある教えを受け取るチャンスを持ちながら、求めることなく、虚しく元の場所に戻ってしまうのです。
このような現状は、まるで宝山や華園に足を踏み入れたにもかかわらず、手ぶらで帰ってしまう旅人の姿を想起させます。智慧があれば、信念をもってその教えを学び、実践することができるはずですが、それが行われない限り、大切な宝を受け取ることは出来ないのです。
仏法の教えは、私たちがどのように生きるべきか、また本当の幸福とは何かを示してくれます。しかし、その教えを理解するためには、まず信じる心が必要です。この信念が根付かなければ、私たちは常に無常の波に流されてしまい、何も得られない日々を過ごすことになるでしょう。
慈覚大師の教えを通じて、我々は智慧を養うことの大切さを知ります。彼は中国で多くの仏教経典を学び、帰国してからはそれを広める使命を全うしました。このように、智慧を持ち、信念をもって生きることが、私たちを本当に豊かな世界へと導いてくれるのです。私たちは日々の修行を通じて、この智慧を培い、仏法の真理を信じて生きることを志しましょう。そうすれば、宝の山へと至る道が開かれ、何ものにもかえがたい真の幸福を手に入れることができるのです。