十字架への道-イエスの受難と我々へのメッセージ
(マタイによる福音書 27:11-56)
さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」と言われた。
しかし、祭司長たちや長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
すると、ピラトは、「聞こえないのか。あんなにお前に不利な証言をしているのに」と言った。
しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。
ところで、祭りの度に、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
時に、バラバ・イエスと言う名うての囚人がいた。
ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」
人々がイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。
ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
ピラトが、「では、メシアと言われているイエスのほうは、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
ピラトは、「一体、どんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
ピラトは手の付けようがなく、かえって騒動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。」
民はこぞって答えた。「その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい。」
そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
そして、イエスの着ている物を剝ぎ取り、深紅の外套を着せ、
茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩いた。
このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、
そこに座って見張りをしていた。
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、
言った。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。
さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
またそこでは、大勢の女たちが遠くから見守っていた。イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。
その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
(マタイによる福音書 27:11-56) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
イエス・キリストが十字架に向かうその道には、多くの試練と侮辱が待ち受けていました。彼は裁判の場において、無実のままに唇を閉ざし、言葉を発することはありませんでした。ピラトはその静けさに驚きを覚え、どのような悪事を働いたというのかと問い続けましたが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫びました。この光景は、私たちの心に深い響きを与えます。
イエスが十字架につけられる際の人々の行動は、信仰の深さや、自らを顧みることの重要性を教えてくれます。イエスは、ユダヤ人の王であるという侮辱を受けながらも、その使命を全うしました。彼の言葉、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、私たちに神との関係を再認識させます。孤独と苦しみの中でさえ、彼は私たちのために全てを捧げてくださったのです。
この受難は、私たち一人一人に与えられた罪からの解放の象徴です。そして、十字架は私たちにとって神の愛と許しを表す新たな道となったのです。イエスの復活は、私たちが抱えるどんな苦難の中においても希望があることを示しています。この聖句は、私たちがどのように信じ、歩むべきかを示す重要な名言なのです。私たちは十字架の道を歩むことで、イエスの受けた苦しみと愛の深さを知ることができます。