聖霊が降る日、神の力が満ちる瞬間

五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。

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今日のテーマ

イエスに生きる - 神の土台の上に建てる私たちの信仰とは

智慧

日々の決断を照らす知恵の光

私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。 この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるなら、 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれが明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを試すからです。 誰かが建てた仕事が残れば、その人は報酬を受けますが、 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐるようにして救われます。 あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです

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死に打ち勝つための聖句と名言

愛

隣人を愛し、慈しむ心

私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。 生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。 「主は言われる。 『私は生きている。 すべての膝は、私の前にかがみ すべての舌は、神をほめたたえる』と。」 それで、私たちは一人一人、自分のことについて神に申し開きすることになるのです

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最新の言葉

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教会の一致 - キリストの体の重要性と一体感について

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。 なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。 実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。 そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょう。 しかし実際は、多くの部分があっても、体は一つなのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。 しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。 それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です

奉仕と忠実さ: 聖書の言葉から学ぶ真の価値とは

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうすれば、管理の仕事をやめさせられても、私を家に迎えてくれる人がいるに違いない。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に、『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。早く座って、五十バトスと書きなさい。』 また別の者には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書きなさい。』 主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。 そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。 だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

たがいに徳を高める:異言の大切さと教会の繁栄

だから、きょうだいたち、私がそちらに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。 笛や竪琴のような命のない楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。 ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦闘態勢に入るでしょうか。 同じように、あなたがたも異言ではっきりしない言葉を語れば、話していることをどうして分かってもらえるでしょう。空に向かって語ることになるからです。 世界には実に多くの言語がありますが、意味のないものは一つもありません。 ですから、もしその言語の意味が分からないなら、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人ということになります。 同じように、あなたがたも霊の賜物を熱心に求めているのなら、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。 こういうわけで、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。 私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、理性は働いていません。 では、どうすればよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。 さもなければ、あなたが霊で祝福しても、初心者の立場にある者は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。 私は、あなたがたの誰よりも多くの異言が語れることを、神に感謝します。 しかし、教会では、異言で一万の言葉を語るよりも、他の人たちを教えるために、理性によって五つの言葉を語るほうを取ります

希望の言葉