一つとなるために-聖句の教え

(コリントの信徒への手紙一 12:19-31)

原文

すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょう。

しかし実際は、多くの部分があっても、体は一つなのです。

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。

しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。

それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。

神はご自身のために、教会の中でいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に癒やしの賜物を持つ者、援助する者、管理する者、種々の異言を語る者などです。

皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。皆が奇跡を行う者でしょうか。

皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がそれを解き明かすでしょうか。

あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に求めなさい。

出典

(コリントの信徒への手紙一 12:19-31) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用

妙機牧師の教え

私たちの人生の中で、様々な役割を持つ人々が集まり、共に歩むことはとても重要です。聖書の中で語られる言葉は、私たちが単なる個々の存在ではなく、ひとつの体として共に生きることの大切さを教えています。「すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょうか」と聖句は問いかけます。これは、目や手、足など、体の一部が互いに必要であることを思い起こさせます。私たちは、見えない部分や地味な部分にこそ、実は大切な役割があることを認識することが求められています。

たとえ、ある部分が弱く見えたり、重要でないように思えたりしても、それらがあってこそ、一つの体としての機能が保たれるのです。聖句は教えます。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」このように、私たちは互いに支え合い、共に過ごすことが求められています。

また、神は私たちにそれぞれ異なる賜物を授けてくださっています。使徒や預言者、教師、奇跡を行う者や癒やしの賜物を持つ者など、様々な働きを通じて教会が形成されています。これは私たちが全体として機能するための特別な存在であることを示しています。

「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。」この言葉を胸に、私たちも互いに大きな賜物を求め、互いを尊重し、一つとなるために努めましょう。共に歩むことを喜び、また、それぞれの役割を果たすことが、神の心にかなう道であると信じて。

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