神のさばきと知恵:十字架による救いのメッセージ
(コリントの信徒への手紙一 1:20-25)
知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
(コリントの信徒への手紙一 1:20-25) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
神のさばきと知恵は時に、人々にとって理解しがたいものです。「知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる」と問われると、私たちはその答えを求めます。しかし、神はこの世の知恵を愚かなものとしてし、私たちの目を十字架のキリストに向けさせました。この世の知恵によって神を認めることはできません。むしろ、神は宣教という愚かに見える方法を通して、信じる者を救おうとされているのです。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探し続けますが、私たちが宣べ伝えるのは「十字架を背負ったキリスト」です。このキリストこそが、ユダヤ人にはつまずきを与え、異邦人には愚かさに映ります。しかし、召された者にとっては、十字架のキリストが神の力であり、神の知恵であるのです。
私たちは、この愚かなものとされるメッセージの中に、真の自由と救いを見出すのです。神の愚かさは人の知恵を超え、神の弱さは人の力を上回ります。この神の計画を通じて、私たちは本当の意味での知恵を得ることができるのです。だからこそ、私たちは日々、十字架を背負い、神の言葉を心に刻み、その力を信じて生きていくことが求められています。