教会の奉仕者としての使命と聖句の教え

モーセはアロンとその子らに言った。「アロンとその子らがそれを食べるようにと私が命じておいたように、会見の幕屋の入り口で肉を煮て、その場で任職の献げ物の籠にあるパンと一緒に食べなさい。 残った肉とパンは火で焼かなければならない。 あなたがたの任職式の期間が明けるまでの七日間、会見の幕屋の入り口から外に出てはならない。七日間かけて任職式が行われるからである。 今日、行ったように行って、あなたがたのために贖いをするようにと主は命じられた。 会見の幕屋の入り口に、七日間、昼も夜もとどまり、主への務めを守りなさい。そうすれば死ぬことはない。このように私は命じられた。」 アロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたことをすべて行った。

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今日のテーマ

招きのことば:イエスの教えが導く信仰の旅

智慧

日々の決断を照らす知恵の光

彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに、「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 そして別の人に、「私に従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」 また別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください。」 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と言われた

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イエスの招きと悔い改めの聖句

隣人を愛し、慈しむ心

その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、二人をお呼びになった。 彼らはすぐに舟と父を残して、イエスに従った

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最新の言葉

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教会の一致 - キリストの体の重要性と一体感について

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。 なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。 実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。 そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょう。 しかし実際は、多くの部分があっても、体は一つなのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。 しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。 それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です

奉仕と忠実さ: 聖書の言葉から学ぶ真の価値とは

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうすれば、管理の仕事をやめさせられても、私を家に迎えてくれる人がいるに違いない。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に、『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。早く座って、五十バトスと書きなさい。』 また別の者には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書きなさい。』 主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。 そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。 だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

たがいに徳を高める:異言の大切さと教会の繁栄

だから、きょうだいたち、私がそちらに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。 笛や竪琴のような命のない楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。 ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦闘態勢に入るでしょうか。 同じように、あなたがたも異言ではっきりしない言葉を語れば、話していることをどうして分かってもらえるでしょう。空に向かって語ることになるからです。 世界には実に多くの言語がありますが、意味のないものは一つもありません。 ですから、もしその言語の意味が分からないなら、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人ということになります。 同じように、あなたがたも霊の賜物を熱心に求めているのなら、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。 こういうわけで、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。 私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、理性は働いていません。 では、どうすればよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。 さもなければ、あなたが霊で祝福しても、初心者の立場にある者は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。 私は、あなたがたの誰よりも多くの異言が語れることを、神に感謝します。 しかし、教会では、異言で一万の言葉を語るよりも、他の人たちを教えるために、理性によって五つの言葉を語るほうを取ります

希望の言葉