希望を失った時の聖句:待望の結び目
(エゼキエル書 7:25-27)
苦悩が臨む。
平和を求めても、どこにもない。
災難に災難が続き
噂に噂が相次ぐ。
彼らは預言者に幻を求めるが
律法は祭司から
助言は長老から消えうせる。
王は嘆き悲しみ
指導者は望みを失い
その地の民の手は震える。
私は彼らの行いに応じて彼らを扱い
彼らの法に従って彼らを裁く。
こうして
彼らは私が主であることを知るようになる。」
(エゼキエル書 7:25-27) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
待望の時が来る。苦悩が臨むとき、平和を求めても見当たらない。私たちの周りには、災難が続き、噂が飛び交う。多くの人々が預言者に幻を求めるが、律法は祭司から消え、助言は長老の口から失われてしまった。
王は嘆き悲しみ、指導者は希望を見失い、地の民の手は震える。そして神は言われる。「私は彼らの行いに応じて彼らを扱い、彼らの法に従って彼らを裁く。」それが主の言葉である。どうか私たちがこの言葉を心に刻み、主なる神の意志を理解できるように助けてください。
私たちが苦しみの中にあっても、神の裁きは正義であり、またその背後には愛があることを忘れないでほしい。すべての災難の中でも、神は私たちを見捨てず、私たちが何を学び、どのように成長するかを見守っている。私たちが試練を経て成長し、真実の平和を見出す日が来ることを信じよう。
「こうして、彼らは私が主であることを知るようになる」との言葉に従い、私たち自身もその一部となるよう祈り続けよう。希望を失ったその時にこそ、私たちは神を見上げ、新たな力を受け取ることができるのである。心の中にある信仰を忘れずに、待望のときに備えよう。神は私たちと共にいてくださるのだから。