すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。すべてのことが許されています。しかし、す

すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが人を造り上げるわけではありません。 誰でも、自分の利益ではなく、他人の利益を求めなさい。 市場で売っている物は、いちいち良心に問うことなく何でも食べなさい。 「地とそこに満ちるものは、主のもの」だからです。 あなたがたが信仰のない人に招かれて、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、いちいち良心に問うことなく何でも食べなさい。 しかし、もし誰かが「これは、神殿に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。 「良心」と私が言うのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことです。どうして私の自由が、他人の良心によって左右されることがあるでしょうか。 私が感謝して食事にあずかるなら、私が感謝しているものについて、どうして悪口を言われるわけがあるでしょうか。 だから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。 私が、何事につけ、すべての人を喜ばせているようにです。私は、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の利益を求めているのです。 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。

私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。

ユダヤ人には、ユダヤ人のよ

私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法の下にある人には、私自身はそうではありませんが、律法の下にある人のようになりました。律法の下にある人を得るためです。 私は神の律法を持たないのではなく、キリストの律法の内にあるのですが、律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 弱い人には、弱い人になりました。弱い人を得るためです。すべての人に、すべてのものとなりました。ともかく、何人かでも救うためです。 福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです。 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る人たちは、皆走っても、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるために節制するのです。 ですから、私は、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 むしろ、自分の体を打ち叩いて従わせます。他の人に宣教しておきながら、自分のほうが失格者とならないためです。

今、ここにあなたがたが求め、選んだ王がいる。主はあなたがたに王をお与えになった。

もし主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従

今、ここにあなたがたが求め、選んだ王がいる。主はあなたがたに王をお与えになった。 もし主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の命令に逆らうことなく、あなたがたも、あなたがたを治める王も、神である主に従うなら、それでよい。 しかし、もし主の声に聞き従わず、主の命令に逆らうならば、主の手があなたがたの先祖に下ったように、あなたがたにも下るだろう。 今こそしっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。 今日は小麦の刈り入れの時ではないか。私が主に呼び求めると、主は雷をとどろかせて雨を降らせる。それを見て、自分たちのために王を求めたことが主の目にどんなに大きな悪であったかを知るがよい。」 サムエルが主を呼び求めると、その日、主は雷をとどろかせて雨を降らせた。民は皆、主とサムエルを非常に畏れ、 サムエルに言った。「僕たちのため、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。我々はあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えてしまいました。」 サムエルは民に言った。「恐れなくてもよい。あなたがたはこのような悪を行ったが、これからは主から離れることなく心を尽くして主に仕えなさい。 役にも立たず救うこともできない空しいものを求めて離れてはならない。それは空しいものなのだ。 主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。あなたがたをご自分の民と固く決めておられるからである。 私もまた、あなたがたのために祈ることをやめて主に対し罪を犯すようなことはしない。あなたがたには、正しく善い道を教えよう。

そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似ている。

清算が始まると、一万タラントン借金している家来が

そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似ている。 清算が始まると、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した。 家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。 ところが、この家来は外に出て、百デナリオン貸している仲間の一人に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだ。 しかし、承知せず、行って、借金を返すまでその人を牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に一部始終を報告した。 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。 あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。主にあるあなたがたは、私の働きの実ではないか。

私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。主にあるあなたがたは、私の働きの実ではないか。 他の人々にとって私は使徒でなくても、あなたがたには使徒です。主にあるあなたがたが、私が使徒であることの証印なのです。 私を批判する人たちには、こう弁明します。 私たちには、食べたり飲んだりする権利がないのですか。 私たちには、他の使徒や主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。 あるいは、私とバルナバだけには、働かずにいる権利がないのですか。 一体、自費で兵士になる者がいますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳からできたものを食べない者がいますか。 私がこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。 モーセの律法に、「脱穀している牛に、口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。 それとも、私たちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、私たちのためにそう書かれているのです。なぜなら、耕す者は当然、望みを持って耕すべきであり、脱穀する者は分け前にあずかる望みを持って脱穀するからです。 私たちがあなたがたに霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取るのは、行き過ぎでしょうか。 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらそうではありませんか。しかし、私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を妨げないように、すべてのことを耐え忍んでいます。

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。

私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶも

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。 私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。 私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。 私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。 私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。 父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。 私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることがで

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。 父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる。 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。 また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。 すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。 よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。 父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。 そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。 私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである。」

私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。

しかし、人が義とされるのは、律法の行いによる

私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。 それでは、キリストにあって義とされることを求めながら、私たち自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者となるのでしょうか。決してそうではない。 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、私は自分が違反者であると証明することになります。 私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。 私は神の恵みを無駄にはしません。なぜなら、もし義が律法を通して得られるならば、キリストの死は無駄になってしまうからです。

53 54 55 56 57