では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたのは、倒れるためであったのか。決してそうではない。かえって、彼らの過ちによって、救いが異邦人に及びました。それは、彼らに妬みを起こさせるためです。
彼らの過ちが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
そこで、あなたがた異邦人に言います。私は、異邦人への使徒として、自分の務めを光栄に思っています。
何とかして私の同胞に妬みを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
彼らが捨てられることが世界の和解となるなら、受け入れられることは死者の中からの命でなくて何でしょう。
麦の初穂が聖なるものであれば、パン生地もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたがそれに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けているからといって、
あなたは、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
そのとおりです。ユダヤ人は不信仰のために折り取られ、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう。
だから、神の慈しみと厳しさとを考えなさい。厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。そうでなければ、あなたも切り取られるでしょう。
彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるからです。
もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。